他人の死は悲しいが、自分の死は悲しくない理由。
世の中の大半の人は
自分の死に対して悲しめないと思う。
なぜなら
自分の死は※現象にしか過ぎないから。
※感性的認識の対象という意味を用いる
。。
他人の死が悲しいのは
それが現実に起こる(起きた)ことであり
死を客観的に体験できるからである。
一方で自分の死は客観的には体験できない。
現象である『死』は主観的であり
人それぞれによって捉え方が異なる。
大病を患った方と健常者では
死という概念に対しての捉え方が異なるはずだ。
死を間近に感じられない人は
いつか死ぬことを理解しているにも関わらず
何となく生きて真剣さに欠けている。
明日死ぬとするなら
今日と同じ1日を過ごすだろうか?
その質問の意味はわかるけど
実際には言い訳をして行動できない。
僕はそういう人間だと思う。
そんな僕でも
死を想うきっかけを大切にすることは出来る。
先日、小林麻央さんが亡くなったと聞いて
死に対して考えていた。
そして死を想うために何をすべきかを
端的に表された記事を読んだことで
僕も死について記事にしようと思い立った。
かさこさんのブログより
===以下引用===
たった一度の人生。
いつ死ぬかもわからない人生。
だから今を大切にし
好きなことを前倒しにする人生を
という話をすれば
多くの人はわかった気になる。
でも本当にそんな想いで
毎日を生きているだろうか?
死を想えといいつつ思っていない。
いつ死ぬかもわからないといいながら
自分だけはこの先、何年も生きられると
勝手に思い込んでいる。
===引用終わり===
死を想いながら暮らし
毎日を生きていくことは容易ではないが
何かをきっかけに考えることはできる。
他人の死という現実を受けて
親族の悲しみや不幸や状況を詮索するのではなく
自分の死という現象について考え
死を想うきっかけにすべきではないだろうか。